串本町と紀南の民話
(串本町公民館発行 串本民話伝説集/神坂次郎の紀伊半島再発見より)

和歌山の民宿

串本 お宿えびす
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本州最南端の町で田舎暮らし
目次    1.紀伊大島の話
       2.トルコ軍艦遭難と悲劇が生んだ友情
       3.芦雪の絵と無量寺
       
4.熊野路愛の物語
       5.悲恋の皇后と潮岬のみつな柏
       6.熊野水軍の船祭り
       
7.姫恋しの海辺
       8.丹敷戸畔(にしきとべ)の森
       
9.良栄丸の悲劇
       10.ネロさんが唄った串本節
       11.名灸歯瘍(はちょう)の由来
       12.目なしダイ
       13.トンガ丸の冒険
       14.大島へ来た黒船
       15.太吉の涙
       16.三十三間堂棟木 柳の木運搬

       17.おおな伝説(弘法伝説)

 

       1.紀伊大島の話

串本の桟橋から以前は巡航船に乗って、わずか10分であっという間に大島の港に着く。大島は東西8キロ、周囲36キロ、静かなたたずまいの島である。
大島の人たちから串本節について言えば、”ここは大島、向かいは串本〜”この歌詞が正調なのだ。昔はみんな、”ここは大島〜”って唄いよった。それがいつも間にか、串本の方が宣伝が派手じゃったのであちゃに唄を盗まれ、文句(歌詞) まで変えられてしもうたんよ〜。この唄は大島がほんまよっと年寄りの婆さんは言う。

江戸から昭和に始にかけては大島は串本よりはるかに繁盛した土地で、海を往来する廻船の風待ち、潮待ち、水・食料の積込みで日によっては江戸通いの帆船が百隻以上も停泊する事があった。
そんな船乗り相手の遊女たちも大島には多かった。
遊女150人あまりもおったという。
”なぜに佐吉は松のかげ〜”と串本節に唄われた「佐吉桜」(遊女屋の屋号)に船乗りたちの心をときめかせた島一番の美女、お雪がいた。
歌には”大島水谷かかりし船はお雪見たさの潮がかり”
婆さんは「お雪さんの事はよう覚えとる、べっぴんじゃったがどことのう寂しそうな人じゃった」婆さんが子供の頃、船乗りから教えてもろうた、ゲスイ(ひわいな)歌を唄うてたら、お雪さんが「譲ちゃんはそんな歌、うとうたらいけん」って叱ってくれた事を今でも思い出すと昔をなつかしむそうです。
おそらく、その当時のお雪は3、4代目のお雪なのでしょう。お雪というのは大島の遊女たちの中で最も美人である奴につけられる名だったそうです。
その海の男たちの心をときめかせた初代のお雪の墓が蓮生寺の墓地にある。
妙艶信女。苔むしたその墓は港を一望する丘の上にひっそりとあり、遊女の墓というのはなまめかしくも、悲しいものです。
墓の近くに朝露童子、泡幻童女などと刻んだおびただしい名を連ねた一枚の墓碑がある。おそらく、世の祝福を受ける事なく、はかなく去った遊女たちのえいじのものであろう。それはまばゆい陽射しの下で眺めるには余りにも悲しい風景である。

大島は大半を断崖絶壁に囲まれているので、その景観は男性的である。
中でも島の東端に一キロほど突出している樫野崎灯台からの海景は声をのむほどのすばらしさだ。太平洋のふうとうを真っ向からうける断崖は、贅肉をそぎおとして、おびただしい岩礁は海流の中に黒い牙を見せている。ここでは自然はまだ野生を失ってはいない。
わが国最古の洋式灯台に一つで、明治3年に作られたそうです。この一帯を「海金剛」といい、それはすばらしい景色です。
海金剛の眺めが最もよいのは、日米修交館を出て、樹海の中のような道を進んだその先の台地からの眺めは最高です。

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トルコ軍艦遭難と悲劇が生んだ友情
大島の中でも一番有名なのはトルコ軍艦遭難事故の話です。
世界でも最も親日的だといわれる国はどこか。同盟を結ぶアメリカでもなく、近隣の国でもない。
それはトルコです。
始まりは一世紀と少し前、明治23年(1890年)9月16日、全長76メートルに及ぶ軍艦が暴風雨により樫野で沈没した。
オスマン・トルコのエルトゥールル号、乗組員587人が死亡し、生存者わずかに69人。
海難史上まれにみる惨事だった。
トルコでは深い悲しみに包まれたが、同時に日本への感謝の気持ちも広がった。
日本人は外国人を献身的に救護し、死者を丁重に葬ってくれたと。
悲劇に縁どられて救いの物語は脈々と語り継がれた。
トルコ共和国の建国の父と呼ばれた初代大統領・ムスタファ・ケマル・アタチュルクは昭和12年(1937年)艦が沈んだ海を見下ろす樫野の岬に高さ13メートルの御影石の慰霊碑を建てた。中央にいかりを、左にトルコ国旗、右に日本の海軍旗を配した。正面のシンボルマークは日本への友好の証でもある。トルコ人のほとんどが知っていて、日本人のほとんどが知らなかった。エルトウール号の遭難は日本の教科書にのる様になって、日本全国に知られるようになった。
明治23年9月16日、四国地方を台風が北上し、大島は東風が吹き荒れていた。横浜港を出発して、二日目のエルトゥールル号はマストが折れ、カジがきかなくなり、大島の樫野水域に突入した。いかりを下ろそうとした瞬間、岩礁に激突、船底から海水が流れ込み、蒸気機関が爆発した。
はるばると来た親善航海の帰途、艦は爆沈し、オスマン・パジャ提督率いる650人を超す乗組員が荒れ狂う真っ暗闇の海に放り出された。
地元の渡船業の浜野昭和さんに聞けば、爆発の衝撃だけでなく、波で岩場にたたきつけられて死んだ人が多かったと想像すると話されていた。
どうにか岸に流れ着いた生存者が助けを求めてきたわずか60世帯の島民がその69人の体を温め、浴衣を着せ、自分たちの非常食を与え、介抱し尽くした。


灯台ニ居ル者ハ重傷者タルヲ以テ・・・・。直ニ同灯台官舎内ニ於テ治療施術シ、暫次和官舎ニ移シタルモ狭隘ニシテ・・・。

当時の大島村長の沖周がトルコ軍艦遭難取扱に係る日記に詳しく書き残している。
生存者はこのあと、政府が派遣した医師の治療を受け、3週間後、日本海軍の2隻の軍艦で送り届けられた。
本国に戻った乗組員は、日本人の隔たりのない温かさを語り、語り継がれた。

それから15年後、トルコ人に日本という国をさらに強烈に印象付ける出来事が起こる。
それは日露戦争の日本の勝利だった。
トルコは帝政ロシアから南下政策による侵略を再三受けていた。
エルトゥールル号の日本への航海も同じロシアからの脅威にさらされている国として、日本と手を結ぼうというのがトルコの目的だった。
それだけに極東の小国が大国ロシアに勝ったニュースにトルコ人は喝采を送り、勇気づけられた。

当時、私のお爺さんから子供の頃よく聞かされた話の中では、トルコ軍艦が沈没した時に橋杭の弘法湯の下から姫(ひめ)にかけて、当時は橋杭村の土地だったそうですが、乗組員10数名の死体が海岸に打ち寄せられた橋杭の住民はその処理に困り、姫の人たちにお願いし、そのかわりに稲荷神社から東側は姫となったそうです。
その後、爺さんはアメリカに働きに行き、日露戦争時にアメリカのテキサス州にて線路工夫として仕事をしていた時、世界一小さな国が世界一大きな国ロシアに勝利したとニュースが流れ、ニューヨークやワシントンからアメリカ人の婦人を中心に何日もかけて日本人を見たさにテキサスまで足を運んできたと爺さんが自慢げに話していたことを今でも時々思い出します。

話は昭和60年の中東では、イラン・イラク戦争が激化していた。
3月17日、イラクのフセイン大統領が48時間以降のイラン上空は激域と宣告した。
たとえ民間機でも撃墜するやと発表した。そのイランには商社マンら多くの日本人がいた為、政府は脱出させなければならない。しかし、当時の法律では自衛隊機は使用できず、安全上民間機もチャーターできなく、イランの日本大使・野村豊さんは、欧州・中東の各国に救援を要請したところ、ほとんどの国は自国のことで手一杯の中で、唯一、手を差し伸べてくれた国はトルコでした。
野村さんがテヘラン空港近くのホテルで待機していた日本人に知らせた時、歓声が湧き起こったという。
262人がトルコ航空機でイラン領空を脱出できたのは、デッドライン1時間前だった。

エルトゥールル号の遭難からほぼ一世紀、今度は日本が感謝する番だった。
トルコで日本大使を経験した遠山敦子元文部科学相は、日本の経済力や外交を考えての判断だけではなく、長年抱いてきた親日感情があればこそ。
日本人に危険が迫ってきたから助けてくれたと話したそうです。
最近、エルトゥールル号は思わぬ角度からも浮かびあがった。内閣府の中央防災会議が設立した災害訓練の継承に関する専門調査会で、外国が関係した重大な災害として、当時の政府や社会の対応が検証された。中心メンバーの三沢伸生(東洋大学助教授)は明治政府はナショナリズムの高揚に利用しようとした側面もあるが、人命を最優先した大島(樫野)住民の献身は特筆に値するとたたえた。

今から4年前のサッカーW杯決勝トーナメント。
日本対トルコ戦が宮城で行われた時、串本では町民が会館に集まり、両国の国旗を手に応援した。それを伝え聞いたトルコサッカー協会の会長から後日、代表選手のユニホームが串本に届いた。胸に英文で、「エルトゥールル号殉難将士の御霊に捧ぐ」と書いてあり、今年から東京と大阪の二つの教科書出版社が中学校社会科の教科書に載せることになった。
最近は、義理・人情に欠ける事が多く発生する中、百年以上も続く両国の架け橋はここ、串本にあり。
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芦雪の絵と無量寺


長沢芦雪は山城の国(京都府)淀の城主・稲葉丹後の守の家臣で、のちに京都画壇の巨匠・円山応挙の門に入るが、姓奔放・覇気あふれる芦雪の個性は写生主義をひっさげて登場し、江戸時代の画壇に新風を吹き込んだ師・応挙の画風にも満足せず、ついに破門され、師の元を去っていく。

この異端児・芦雪の作品が紀南の寺々に数多く残されている。
芦雪は紀南を旅したのは、師から破門される前の天明6年(1786年)多忙な師の代理として紀南を訪れた。
それには仔細がある。応挙が無名の青年時代、2人の親友があった。
京都の寺で修行する若い僧・愚海と棠蔭である。
応挙はこの2人の友に常々、いずれお手前が世に出、一寺の主になられるであろうその時にはわしもお祝いに駆けつけ、絵を描いてしんぜよう。そう約束していたのである。
そして時が経ち、年は流れ、応挙は華々しく画壇に登場し、二人の僧もやがて熊野にて一寺の主となる。
かねてからの約束を果たそうにも売れっ子の応挙には時間がなく、一番弟子の芦雪に絵をもたせ、熊野へ旅立たせたのでした。串本の無量寺の愚海和尚のもとへ師の「波上群仙図」を届けた所、和尚に引き止められてそのまましばらく逗留して、自分もすさまじい迫力でふすま6面いっぱいに一匹の虎を描き、対する6面のふすまに豪快な龍を描いた。
芦雪の絵は多く、水墨ふすま絵40余りあり
酒が好きで、誰でも酒さえ持って行けば気軽に描いてくれたとも言われており、そんな芦雪の奇想天外なエピソードがここ串本に残っている。
たて長の紙面の下半分を巨鯨に見立て、真っ黒に塗りつぶし、上部に小さく鯨を追い、迫ってくる勢子舟の群れを描いた捕鯨図である。
南紀の風光と酒をこよなく愛していたと伝えられており、その後、串本から白浜の近く富田川を渡って南に下った地にある大寺・草堂寺の棠蔭和尚のもとに師の絵「梅香之図」を持参し、ここでも滞在して客殿に「虎渓3笑図」を描き、「放牛図」を描く。
中でも、四面に描いた、3頭の牛は近代的で観察眠の鋭さをあらわしている。
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4.熊野路愛の物語

熊野路の往還には熊野詣の道者達にまじって、さまざまな女たちの姿が刻み込まれている。
和泉の国の葛の葉狐、狂恋の清姫、恋多き情熱の歌人・和泉式部、殉愛の照手姫。
熊野への長い道中の各地におこったこれらの説話は旅の苦しさを忘れさせ、聖地熊野へのあこがれをかきたてた。中世の幽暗をただよわせた熊野の道には説話の中の女主人公達が今も尚、生きいきとした表情をただよわせている。

これは小栗判官と照手姫との愛の物語です。
苦難した熊野行きの中で人々の口から耳に、耳から口へと語り伝えられていった。
永享6年(1434年)今から572年前の事です。

京都・三条高倉の大納言兼家の嫡男・小栗判官兼重は、ふとした事から父の怒りにふれて、常陸の国(茨城県)に流される。
その常陸で失意の日をおくったていた所、土地の豪族の娘で絶世の美女・照手姫と契りをかわす仲になる。しかし、姫の父の恨みをかって、毒酒を盛られ殺されてしまいます。
照手姫も父の目を盗んで不義をはたらいた罪で檻に閉じ込められたまま、相模川の入海に流されてしまいます。
毒殺された小栗の屍
は土葬され、その魂は地獄に落ちてゆくが、小栗の非業の死をあわれんだエンマ大王は、小栗の胸に木札を付けて、人間界に送り返す。それは死んで3年目のことである。
ちょうどその3年目の時に小栗が埋められている塚の近くを通りかかった藤沢の明堂上人は、目の前の塚がぼっかり割れて、その土中から這い出てきた小栗の姿を見て驚いた。
髪の毛はのび、毒酒の為に顔の肉はくずれ、両眼はつぶれ、やせ枯れて糸の様に細長い手足をうごめかして地べたを這い回っているのである。
それは人間というより、人の形をしたクモに近い有様。
明堂上人は、その異妖な生きものの胸にかかっている、一枚の木札をのぞいた。この者を藤沢の明堂上人の仏弟子としてす。
熊野本宮、
湯の峯の霊湯にいれて賜れ・・・。と書いており、エンマ大王の手判が押されている。
明堂上人は、あらありがたのおん事やと念仏をあげ、足も腰もなえはてた小栗を土車に乗せ、この土車を引き者、一引き引けば千僧供養、二引き引けば万僧供養とエンマ大王の胸札の脇に書き添え、自らこの車の手綱をとって引いた。
千僧供養というのは、千人の僧をまねいて供養するほどの功徳があるということです。
こうして業病に病みくずれた小栗を乗せた車は熊野権現の利生を願う善男善たちの手から手に引かれ、熊野への道をたどって行く。
小栗判官の悲劇もさる事ながら、檻に入れられ、海に流された照手姫の行く手もまた、苦難に満ちたものでした。
武蔵の国(六が浦)に流れ着いた照手姫は、強欲な猟師の女房の手で人買いに売り渡され、越後に売られ、越中から能登に売られ、加賀・近江へと転々と人買いの手に渡り、生きながら人間界の魔道を踏み迷っていく。時には、流れの姫(遊女)の境涯に堕ち、遊客の枕辺に、はべれと言う宿の主人の言葉に対して、契りをかわした亡き夫・小栗の為にこばんだ照手姫は、「私はかの国・この国と転々と売られていくのは、体に悪い毒があるゆえ、わが身が殿御の肌にふれればその毒がたちまち9万9千の毛穴からふきいでて、相手の殿御は病死してしまう」と偽って、その難を逃れる。

こうして3年、美濃の国・青墓の宿(大垣市)で水汲み女となっている照手姫の前に、道行く人の手に引かれた小栗が乗せられた土車がやってくる。
ちょうど、水汲みにでた照手姫はその小栗を見るが、皮も肉もくずれたその男が夫の小栗だと気づくはずもない。
わが夫さえこの世に生きておれば、この様な体の人であっても、どのような辛苦もいとわぬものを・・・。
そう思いながら照手姫は小栗の胸札の「この者を一引き引けば千僧供養・・・」と書かれた文字を見て、せめて亡き夫への供養にと心を決めてはだしのまま、往還に走り出て、土車の手綱にすがりつき、「えいさらえい」と、か細い手に力をこめ、よろめく足を踏みしめ踏みしめ、土車を引いた。
照手姫はこの人が恋しい小栗とは知らず、盲目の小栗も愛しい照手姫とは気づかずに引かれていくのである。
小栗を乗せた土車はこの後も道行く人の手から手にひかれて、けわしい熊野の山坂を越えて、ようやく本宮にたどり着き、ここで小栗は熊野山伏に姿をかえて現れた熊野権現に介添えされて、念願の湯の峯薬師寺の霊湯・壷の湯に身を浸す。すると権現の霊験もあらたかに、7日目には両眼が見え、14日目には両耳が聞こえ、21日目にはふたたび元の美丈夫な小栗に戻ったのでした。
こうして全快した小栗は京に上って、父の大納言と対面し、熊野での奇跡を話したところ、それを耳にした天皇が非常に感激して、駿河・常陸の両国を与えられ、いとしい照手姫と結ばれる。

というところで、この数奇をきわめた中世の恋物語は終わっている。
大阪府の堺から以南の熊野街道が、今も小栗街道の別名で呼ばれていることをみても、当時のこの説話がどれほど庶民に愛され、熊野へのあこがれをかきたてかがわかる。徳川時代にできた熊野街道は現在の国道とだいたい同じ道だが、熊野詣でが盛んだった頃の熊野道とはかなり違っている。
小栗街道はその古い方の熊野参詣道になり、はやし言葉として、
「小栗判官、照手の姫は夫のとめよと車ひく、夫のためよと車をひけば、元の小栗に二度添える。」

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5.悲恋の皇后と潮岬のみつな柏
    
日本のピラミッドである前方後円の大墓陵を始めその他、幾つかの大土木工事等を遂行された実力者の上に、眉目秀麗、頭脳明敏な美丈夫であられた仁徳天皇は当時の全女性のあこがれの的であった事は当然のことであります。
皇后は磐之姫で当時第一の豪族、武内宿彌(たけのうちすくね)の孫に当る方でした。

或る年のこと、宮中の宴会に使う「ミツナ柏」をとりに行かねばならなくなった。
当時、それは熊野潮岬にしか生えていない珍しい植物だったのです。常日頃から皇后の嫉妬心と異常なまでの独占欲に悩まされていた天皇は好期到来とばかり、潮岬の美しい風光をたたえ、うまくこの役目を皇后に押し付け、その留守中に自由に羽を伸ばそうとたくらんだのです。用心深い皇后もうまくだまされ、まだ見ぬ熊野にあこがれて難波(なにわ)の宮をあとに船出し、一路岬へ、岬へ南下の船路をたどりました。
幾日か長閑な船旅のあと、ようやくあこがれの本州の最南端の潮岬の厳頭に立つことができました。
皇后はこの美しい岸辺にたたずんで、びょうびょうと果てしない水と空の彼方に瞳を投げかけ、脚下に渦巻く黒潮の怒涛に心躍らせながら、心中如何なる感慨にふけられたことでしょう。
岡に茂る「ミツナ柏」の濃い緑の葉を侍女たちとせっせとつみながらも彼女の胸にゆききするものは、遠く離れてきた夫と共にこの葉をかざして舞う楽しい酒宴の日の事ばかりであったでしょう。
暇をみては「橋杭岩」に遊び、大島に渡っては、かっての朝鮮征伐で勇名をはせた神功皇后が忍熊王子の乱の時、幼い天皇を抱いて難を避けられたと伝えられる通夜島に遊び、ある時はその節、神功皇后岩が酒盛りをされたという岬の芝生に今も残っている盃岩のかたわらにたたずんでは、はるかに高津の宮にひとり淋しく待っている美しい天皇が出船の日にささやいた甘い言葉を思い浮かべ、人知れず頬を染め、夫恋しさに激しい婦心をそそられました。
毎日人々を督励し、ようやく船一杯のミツナ柏をつみ終わった彼女はすぐに出船を命じ、空飛ぶ思いで浪速津へ船を走らせました。
やがてなつかしの港に着こうとする時にそこに待ちかまえていたのは天皇と八田姫との留守中の恋物語でした。
それを聞いた皇后は色青ざめてしばらくは呆然とたたずんでいましたが、急に狂ったように、せっかく苦労してつみ集めてきた柏の葉を全部海の中にまき散らしてしまい、高津の宮へ見向きもしないで故郷の葛城の里に引きこもってしまいました。
天皇はそれを知って大いに驚き、何度も何度も使者を使わして帰ってくるように頼みましたが皇后は心では天皇を深く慕いながらも強情を張って帰りませんでした。あきらめきれない天皇は自分で皇后の家を訪れましたが、彼女は固く扉を閉じて、会おうともしません。
天皇はスゴスゴと高津の宮に引き返されたといいます。
それから数年の別居生活後、皇后はかりそめの病が元でついにこの世を去ってしまいました。病の床にありながら、彼女の心の中をかけめぐるものは恋しい天皇の面影と潮岬にあこがれてひとり旅にでた口惜しさだけでありました。

月かわり星うつってすでに千数百年、天皇の側に自分の外に一人の女性をも近づけまいとした彼女の烈しい性格から考える時、その綿々たる怨みは今に尽きぬものがあるに違いありません。

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6.熊野水軍の船祭り

古座川に河口にある古座の町は
、木材と漁業と、そして清流の町でもあり、この清らかな古座川の流れを舞台に、毎月7月25日に「御船まつり」が行われる。
御船祭りは源平合戦の時、当時は熊野水軍に属しており、この地の海の男達が源氏に味方し、屋島・壇ノ浦の海戦に参加して戦いの勝利に沸き、地元・古座に凱旋して河内神社で祝ったのが始まりだと伝えられている。

古座川の河口をさかのぼって約2キロ、清くすんだ川面に影を写している清暑島、または河内島を土地の人たちは「こったいさま」と呼んでいる。
この島が熊野海賊古座衆の御神体であります。
宵宮は24日、古座の家々はノボリをたてて、御神灯をかかげ、町には子供みこしや屋台がにぎやかにくりだす。午後4時、美しく飾られた3隻の御船が川を上り、しめ縄がかけられた清暑島で夜ごもりをする。
祭りの本番は25日。
広々と熊野灘に向かって開いた古座川の船着場のあたりに、色とりどりの大漁旗やノボリに飾りたてられた漁船がひしめき、真っ黒に日焼けした肌を見せた白装束の若者や少年達の群れが、岸壁や漁業組合の建物の前のそこらにしゃがんだり、腕組みして立ったりして川面を見下ろしている。
午前8時、神官や巫女、それに祭典に奉仕するオジョウロウサマ(10歳位の少女)を乗せた当船が河内大明神のノボリをたてて、おあい川面をゆるやかに上りはじめる。
この船を先頭に若者達の獅子舞船や祭りの見物の屋形船など、さまざまの船があとに続いて行く。しんがりはカイデンマである。
こったい様の船まつりは、源平の船戦で討死した祖霊を弔う為だとも言われている。船べりに赤い友禅模様の幕を張りめぐらし、旗やノボリ、槍、長刀や弓などを立てた軍船づくりの御船が船唄をゆるがせながら進んで行く華麗な御船が川面をすべる様に進んで行く姿は幻想的でさえある。
古座・御船祭りのメーンイベントは、上・中・下の3町内の少年達による、黄・青・赤の3隻のカイデンマの競漕だ。
ピストルの合図とともに、猛烈な水しぶきをあげて、河内島3周レースリーダーの他、1隻のこぎ手は10人。太鼓一人の計12人。この競争に出場する少年たちはその年の若衆頭から指名され、祭り以前の50日間、古座川町鶴川の「若衆宿」で共同生活して鍛えられた少年達である。少年達の激しい掛け声は、平家の軍船に殺到する熊野海軍たち、海に生きた遠い先祖たちの姿を思い浮かべるようです。

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7.姫恋しの海辺

マイカーや特急列車です飛ばして行く旅行も良いが、たまには鈍行列車に乗るのもいい。
本州最南端の町、JR串本駅からがら空きの各駅電車で次の駅「紀伊姫」で降りる。
ここは和歌山県で最初の無人駅で、列車から飛び出してきた車掌が切符を受け取る駅でした。
姫駅は、駅舎も最小で駅前の大通りもバス停もない。おまけに民家に隣接して建っているのでうっかりすると村の公民館か小屋と見間違えてしまう。姫駅から街道を越えて、海岸に出て、串本方面に歩いて行くと、南紀の奇景といわれる串本の「橋杭岩」がここから見ると一番すばらしい。
土地の人たちも姫から見る橋杭岩は表の眺めで串本の人はかわいそうに裏側ばかり見ていると自慢する。
それにしても橋杭岩は大きく、大小43の柱状の石英粗面岩が串本から海を渡って大島の方に延びている姿は奇観であるけど延長700メートルの橋杭岩の眺めはあまりに大きすぎて遠望するしかない。
近づけば大きすぎるし、磯が露呈して橋杭という感じがしない。これは姫の海岸から眺める方がよい。
この姫海岸は、戦前は「姫論争がの松原」と呼ばれるほど美しい松並木があったのだが、戦争中に航空機燃料の松根油をとる為伐採され、それに加えて戦後の国道開通、そしてまた、松くい無視の被害と重なる悲運に見舞われ、今は昔の面影を偲ぶよしもない。
ただひとつの救いは姫海岸の美しい小石である。
この小石を、姫恋し(姫小石)と名づけた村人の心はやさしい。旅の足を止めて、昔は皇室に献上されたのだという。
渚の上の方の石は大きいが、掘ってみると波に洗われて丸みをおびた可愛い小石がぞくぞくとでてくる。
姫恋しと呼ばれるこのこの小石を真綿に包んで、妊婦の腹帯に中に忍ばせておくと安産する、と村の女性が言う。
姫海岸から古座までの海べりの道は、勝浦や白浜といった観光地特有のワイザツサになれた眼にはさびしい感じがするくらい静かだ。
浜辺では陽に焼けた女たちが魚を干し、網もひっそりと垂れている。
その向こうの海では、黒い岩礁を真っ白に波が打ちくだけている。
手のひらで姫小石をころがし、波の音を聞いていると、ふと思い出す詩がうかぶ。
少女期を海鳴りばかりの熊野の浜辺で過ごしたことのある詩人、伊丹公子の透明純潔な心象風景を思い浮かべる。
そこは浜木綿の村でした。
風に向かって一心に花を開いていた浜木綿がやがて実をつける季節になると、雲と波は流れる形になります。
海鳴りばかりの村の真ん中に一軒たった駐在所は、垂れた浜木綿といっしょにもう秋です。
昭和20年代の橋杭の浜は、潮が引けば国道から約100メートル以上もの砂浜が広がり、はまぐりもよく取れ、今の海水浴場あたりから串本寄りに、13本松があり、日が暮れてくるとさみしいところでした。

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8.丹敷戸畔(にしきとべ)の森

昔二色(にしき)に丹敷戸畔(にしきとべ)という酋長が住んでいて、この地方ではかなりの勢力をもっていました。
ある日のこと、有田稲村崎のかなたから、見たこともない船がいく艘も現れました。土民は驚いてすぐに酋長に報告し、たくさんの土民を集めた。
丹敷戸畔は土民を従えて二色湾を一眸に集める南方の森に駆け上がりました。見ると荒れ模様の岬の沖に、余程航海に困難な様子で波のまにまに漂っていました。
あれは全体何船であるか。どこから来た船であるか、土民の大きな驚異でした。
船は次第に灘近く寄せてきます。土民たちはこの未曾有の出来事に口を尖らせてさわぎたてました。
船はなぎさについた頃、土民は手に手に武器を持って集まっていたが、初めはののしりさわぐばかりで近づこうとする者もありませんでした。それもそのはず、船に乗っている人たちは何れも強そうな人ばかりで、一人一人武装に身をかためているからでした。
けれども酋長丹敷戸畔(にしきとべ)は土民をはげまして、上陸をさせないように命令して頑強に戦いました。
軍船に乗った人たちも、直ちに弓矢をとって撃ちだしましたが、酋長初め多くの土民は死傷し、程なく征服せられてしまいました。
軍船とは神武天皇御東征の御船であって、たまたま二色沖で遭難、ようやく非難したものでありました。
二色の南方に戸畔の森といって山頂に松樹が生い茂り、空吹く風にも昔語りを偲ばせていたが、今はその松樹も枯れ果ててしまった。

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9.良栄丸の悲劇

和深・田子港を出航したマグロ漁船が銚子沖で操業中、機械の故障で一年近くも漂流。
乗組員12人の白骨死体をのせた良栄丸がアメリカ、ワシントン州ビューゼット・サウンド湾口で発見され、シアトル港に曳航されたのは、昭和2年(1927年)10月21日のことであった。

その良栄丸の船板には、死を覚悟した乗組員が連名で
「大正15年12月5日、神奈川三崎出発、作業中クランク部破れ、食糧白米一石6斗にて今日まで命を保ち(途中)汽船に出会わず(略)ココニ死を決す。大正16年3月5日」と書かれていた。
漂流中、昭和と改元されたことは知るすべもなかった。
漂流中に書かれた12名の遺書や、三鬼登喜造船長以下全員最後の一人まで、沈着に行動し、死に直面した非常事態の中でのお互いの情愛の美しさが航海日誌(小型の洋紙手帳)に記されていて、全米の人々をはげしく感動させた。 
「カツエ トッタン(父さん)カエレナクナリ ナサケナイ ハハノタシニナッテヤッテクダサレ トッタン」→かつえ 父さん帰れなくなり、情けない。母のたしになってやって下さい。父さん
「キクオ オオキクナリテモ リョウシハデキアセン」→きくお 大きくなっても漁師にはなるな
「アナタモ コレカラハ クロウデス(略) アト12、3ネンはイキタカッタ ワタシノスキナノハソウメンニモチデシタ ミキトキドウノツマ オツネサマ」→あなたもこれからは苦労です。あと12.3年は生きたかった。私の好きな物はそうめんと餅でした。三鬼登喜造の妻 おつね様

航海日誌は現在、串本の無量寺の博物館で公開されています。

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10.ネロさんが唄った串本節

太平洋戦争も末期の昭和19年、ネロ少年の住むネリガム村の日本軍の小部隊が駐屯した。
ネリガム村はパプアニューギニア島ウェワクの海岸からセビック河を車で5時間ほどさかのぼった山深い村である。村の人々は親日的であった。
やがてネロ少年は、兵隊たちの炊事手伝いに雇われて働くことになった。
そんなネロに「二郎」という日本名をつけて弟のようにかわいがったのは和歌山県串本出身の兵士サカイであった。
ネロはサカイが望郷の思いをこめて唄う串本節や、ネロのために唄ってくれた童謡の鳩ぽっぽや桃太郎、金太郎などを、いつか覚えてしまった。
が、そんなのどかな生活もながくはなかった。
戦況は絶望的であった。
半年後、ネズミのように追い詰められたサカイたちの隊は村を発ち、ジャングルの中に消えていった。

戦後、32年たった昭和52年、ネリガム村に再び日本人が姿を見せる。
ニューギニアの各地を取材中のテレビの一行であった。
カメラは、串本節を唄う長老ネロ・ナナシンビの姿をとらえた。
「ニューギニアの山中で、正調串本節が・・・」
テレビの画面は。串本町の人びとにはげしい感動をあたえた。
こうして串本の町からまねかれてネロがやってくる。
英語を話せる甥のドビヤス・ウェリックを同行したネロは、町役場の車で歓迎場にむかった。
ながい式次第のあと、ネロは求められて串本節を唄った。
唄い終わるのが待ちきれず、拍手がわきあがった。その次に、桃太郎や金太郎も唄った。
いずれも片ことの一節だけのものであったが、終わるたびに町民たちは歓声をあげ、掌が痛くなるほどの拍手をおくった。

やがてネロは舞台の上に直立したまま、腕を組み双眸をとじ低い声で唄いはじめた。
「カナシミの霊歌です」
甥のドビヤスは傍から言葉を添えた。
 ノ ノ オンボンベラ オルボアロ ア オ イ イ オルボアロ
単調な霊歌は低く長くつづいた。
あの時、目をとじて少年の日の二郎にかえったネロは、サカイの霊魂をよぶため霊歌を唄いつづけたのであろう。
サカイを故郷串本の土に、やすらかに眠らせてやるために。

ネロは串本に3日いて、ニューギニアの山中の村にかえっていった。

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11.名灸歯瘍(はちょう)の由来

 今から約120年程前、串本の二色に一人の老婆が住んでいたが、灸の名手で、脚の骨折でも灸一つで立派に治す事ができた。この婆さんはそれを商売にして繁昌していたが、安政元年11月4日、5日に突如串本方面を襲った大津波に家屋家財残らず流され、その後急に病で死んでしまった。

 姉は早くから他家に嫁し、妹のとめは19歳の時、山稼ぎの男を夫とし、2人で貧しいながらも生計をたてていた。しかし、夫は多くは山で暮らし、家へ帰るのは月に2、3回であった。
そしてとめは21歳の春、口中の病にかかり、医師からも不治とまで言いわたされた。
ひとり淋しく病床で呻吟していた或る日の事、鉄鉢を持った乞食僧がとめの家の門を叩いて一夜の宿を乞うた。
とめは自分が病である上に、夫は留守であるからと断った。しかし旅僧も強情の性質と見え、盛んに押し問答をした結果、とめは姉に同宿して貰うことにして漸く僧の頼みを聞き入れた。
 その翌朝、旅僧はとめにむかい、「お内儀、私は米がなくなったのでいやでも出立しなければならない」と旅立ちの用意をはじめた。
とめは「まあよいでしょう、米はないが、栗がありますから」とお世辞をいうと、旅僧は厚かましくも、「ではもう一夜だけ」とその夜も宿泊した。その翌朝、僧はまたとめに向かい、「今日立つつもりだったが衣を洗濯したいから明日たつ事にする」と言って、とめから亭主の着物を借り、衣を着替えて井戸端へでた。とめは気をきかせて、たらいと物干竿を持ってきた。僧はそれを見て、「わしの着物は見かけはきたないがたいへん有難い物だ、そのような汚れたものは使うことができない」と言って、清水を汲むにない桶に清水を満たし、はちまきにしめた手ぬぐいで口をふさぎ、2、3回すすぎ、鳶口にさして軒下につるした。20分程して、僧は衣を取り「お内儀や、もう乾いたよ。」と、とめの前に差し出した。とめは「なんです?まだ中々乾くもんですか。」と言ってさわってみて驚いた。今まで雫の垂れていた衣が知らぬ間に乾いていた。
その翌日、4日目である。旅僧は「今日は是非とも出発する。」と挨拶し、庭口でわらじをはき、お経を唱えてかど口から出て行ったが、また引き返して来て、「お内儀、見受けたところ病気らしいが、何処か痛むのか?」ととめに尋ねた。「はい、歯ぐきが腐って痛くてたまりません。」と、とめは正直に答えた。旅僧はしばらく考えていたが、「お前の親切に感心した。お礼に病気を治してやる」と言って、とめの肩をぬがせ後から背中をさすり、前にまわって自分の息をふきかけ、一心にお経を唱えた。数分の後、不治とまで言われた口中の痛みは不思議にもぴたりと止まった。とめは大喜びで、6ますばかり貯えていた米を3ますばかり袋に入れ、お礼のしるしに旅僧に寄進しようと門口にでて見ると、今のさきまで眼の前にいた僧が何時の間に何処へいったのか姿が見えない。不思議なことがあるものだと、上り道・下り道をすっかりさがしたが遂に僧の姿が見えなかった。

 その後数日たって、とめの病は全快した。
その話を聞き伝え、是非私も治してくれと頼みにくる人があったので、とめは半信半疑ながら、僧の真似をしてお経を唱えたところ、不思議にも全治するのであった。さては単なる旅僧と思ったのは、弘法大師が世人の病苦を除かん為の仮の姿で現れ、その法を教えて下さったのに違いないと大師堂を建て、弘法大師を祀った。

 これが二色のお大師で、子孫の阪本氏が今も各地から訪れる病人に施術をしている。
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12.目なしダイ

 昔は串本から魚を大阪まで運ぶのは大変じゃった。和船に帆をまいて、東風の風を受けて、潮岬や日の岬の難所を乗り切るのにヘコまいた。
おまけに夜になると、岬々のたぬきがやってきてのう。ばかされて同じとこを行ったり来たり、大阪に着いたら魚がカンコの中になんにも無かったり。
 タヌキの中でも、淡路の芝右ェ門と加太のなんとかが、いちばんどもならなんだ。
 ある年、おじいさんらがタイをゴッソリ積み込んで大阪へ出向いた。難所を乗り切って、加太のハナをまがった。泉州の灘は静かで、みんなドウマで眠っていた。おじいさんは芝右ェ門の出てきそうな晩じゃと思って、カジを持っていた。やれやれもうひと息で大阪じゃ、カンコの中じゃ大丈夫やろかと見て回った。
どうじゃ、どれもこれもタイの目がなくなっている。
「おうい、みんな来い」と呼びおこし、すみにうずくまっていたタヌキをつかまえた。
「おのれは芝右ェ門じゃな。いつもいつもわるさばかりしよって、今度はもう許さんぞ。」
ほいたら芝右ェ門がいうた。
「今度だけは勘弁してくれ。そのかわり、必ずお前にもうけさいたる」
 ちょうどその年は上方はホウソが大流行で、みんなふるえとった。芝右ェ門は朝の大阪の町を走って呼びまわった。
「紀州の目なしダイはホウソの薬じゃ、紀州の目なしダイはホウソの薬じゃ」

なんと飛ぶように売れた。「しかもいつもの3倍も値がしてのう」
 
 おじいさんらは大もうけして串本へ帰ったそうな。それからは芝右ェ門もわるさにこなかったんだそうな。
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13.トンガ丸の冒険

もう20数年も前になるが、ある雑誌の取材で串本町袋港に住む、トンガ丸十勇士のたった一人の生存者、浜口老人を訪ねたことがある。
 

 
トンガ丸の十勇士とは、昭和初年、南太平洋トンガ王国の女王殿下ご注文のトンガ丸(75トン)に乗って
5千マイル、昨日と今日が同居する奇天烈な、気の遠くなるような遥かな島に向おうという10人組の無謀さに呆れ、村びとがからかったことばだ。
 「なんちゅうヤタケタ(無茶苦茶)な」
呆れるのも、無理はなかった。
商船学校出のプロは船長ひとり、あとの9人は潮岬のお百姓から漁師、ダイバー、無職者、破産して夜逃寸前の町工場の親父・・・と、陸者が半分以上。
村びとたちの予測はずばり適中、赤道海域を越えたあたりで南東の風をくらってトンガ丸は、巨大なうねりの山にもちあげられ、スクリューが空転しエンジンは白けむりをあげ、洋上を漂うこと一昼夜、海図をひろげてみてもひょうひょだが、ひょうひょうたる南太平洋上、ここがどこやらわからない。(当時の海図はわざわざ傍に「この図不完全につき要注意」と刷り込んでいた)船長が天測してみるとコースから70マイルもはずれている。
こうした次から次へと行く手に立ちふさがる障害をくぐりぬけたトンガ丸は、ようやく日付変更線真下のトンガ・タブ島に到着。陽気な島民たちの歓迎をうけた十勇士は連日、踊りと宴会に明け暮れる。
それもそのはずで、トンガ王国の貴族に、女王の姪メレアネ姫と結婚した古座川出身の中尾重平がいる。
だが、世の中そんなにうまくはいかない。
「トンガレレイ」(トンガよいとこ)とばかり、腰布すがたの娘たちと遊び呆けている十勇士たちに突然の退去命令が出る。
トンガ政府の目付け役のイギリス人長官の横車である。

こうして一獲千金
の夢破れた十勇士たちは、みんな散り散りばらばら、木曜島でダイバーをしたり放浪をしたり、すっからかんになって串本に舞い戻ってくる。
しゃべっていると、若き日のことが思い浮かんでくるのか、浜口老は微笑いながら潮風の中で唄い出した。

♪洋服姿で帰ってきたが おっと忘れた千両箱(串本節)

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14.大島へ来た黒船

 時は寛政3年4月のことであった 。
 大島の港へ、突然、13段に帆をかけた大きな船が2艘入ってきた。船を見慣れた大島の人々にも、この大きな異様の船の入港はたいへんな驚きであった。
やがて人々は漁船でこの船を見物に行った。よく見ると、1艘の舳先には長さ1丈(3米)ばかりで甲冑をつけた男が、長剣をよこたえた造り物があり、他の1艘には長さ8尺(2.5米)ばかりの、美女で長く髪をたれ、海面にとどくばかりの美しい着物、それに釣竿を持った全く目の覚める様なきれいな造りものであった。
また、乗組員の人はというと、身長6尺(1.8米)余りで鼻の先がとんがって高く、目が赤く、手足も相当に長いように思われた。見ていると船の上から「上ってこい」と言うようにまねく。村民たちがおそるおそる船に上っていくと、酒や肴などをだしてくれ、紙をくれたりした。
 そのうちに大島の庄屋が、この異国人と通訳するために高芝の医者伊達李俊を漁船で迎えてきた。
李俊は早速この異国の船に上ろうとしたが、船の上から旗のようなものを振って「上って来るな」というような合図をする。やむなく控えていたが、そのうちに村民の一人がこの船につっているはしごを上って中ほどまで行った時、船中から猛犬が走って来て、その者の袖を喰いちぎった。幸いに身体まで及ばなかったが、この勢いに恐れて上ることもできなかった。
 伊達李俊は紙に「どこの船か。何しに来たか」と書いて送ったら、「本船はアメリカ船である。風を待っているだけだ」と書いて送ってきた。
更に、他のことを書いて送ったが、手を振って受取らず、速やかに立ち去れというふうに旗を振ったので、やむなく一町ばかり銃をとって、片手で振り廻し、頬につけ火縄を用いず「ドン」と発砲すると三度に二度は飛鳥に命中して、海中に堕ちる。それを前の猛犬が海に泳いでくわえてくる様は、実に奇怪に覚えたという。
 次いで中湊に居る、藩の役人(訳官で医師)玉川養浩も来て、筆談しようとしたが、やはり彼らは受付けなかった。
 アメリカ船は、ここに泊中、飲料水を汲みいれたり、島に上って材木をやたらに伐採して薪とし、毎日のように積みいれる。そこで須江村の農、冶右ェ門というものが小舟に乗っていき、伐採を制止したが互いにことばが通じないためか、彼らは之を聞き入れるようすもないので、尚も之を制止したので、彼らは銃を冶右ェ門に向けて発砲した。
幸いに弾は足許に落ちただけで身に怪我がなかった。

冶右ェ門は這々の体で逃げ帰ったが、その後、狼籍は益々甚しかったという。
 村民は恐れて之を秘密にして、紀伊藩へ訴えなかった。また碇泊中、毎夜大砲をうつので、その響きは十里の山海にこだまし、多く撃った時には、昼夜38発にも及んだという。
 ここに泊すること、11日、夜中西風の烈しく吹く中を、帆を張って、何方ともなく走り去った。藩の役人が調べにきたのが、彼らが出帆してから二日後であったという。

 これは今から160年程前で、アメリカの使節ペリーが始めて国書を持って日本へ来る60年程前のことである。


15.太吉の涙

本州の南のはしの町、串本に大島という島があります。

 昔その島に、太吉というたいそう正直な男が住んでいました。あんまり正直すぎるので島の人たちは、馬鹿の太吉と呼んでいるくらいでした。
 大島の沖には黒潮という海の流れがあって、黒潮入道という海坊主が住んでいました。黒潮入道が怒り出すと海が荒れて、大島から向かいの串本へ渡ることができない様になります。無理に渡るときっと大勢の人が死にました。太吉は黒潮入道が怒り出した時でも平気で大島から向かいの岸に渡れるようにしたいと思って、神様へ「太吉の命をさしあげますからどうぞ願いをおかなえ下さるように。」とお祈りをいたしました。
 ある晩太吉が一生懸命にお祈りしていますと神様が現れてこう言いました。
「太吉や、太吉や、願いを聞き入れてあげましょう。明日一晩の内に大島と串本との間へ橋をかけなさい、神様がお手伝いしてあげましょう。くれぐれも言っておきますが、一晩の内にかけてしまわねばなりませんぞ。一生懸命に骨を折らねばなりませんぞ。」と申されました。
 太吉はたいそう喜んで神様のおつげの通り、明くる晩、大島から向かいの串本に渡って海の上2キロメートルの間へ大きな岩の橋を架けはじめました。これを見た黒潮入道はたいそう怒って、海は大荒れに荒れだしました。大雨が降って、大風が吹きました。雷がゴロゴロ鳴って、いなびかりがピカピカと光りました。太吉は神様のお助けでちっともこわがらずに海の中へ大きい岩を運んで、1本2本3本と橋杭を立てていきました。だんだんと橋杭は増えていって、20何本と見上げるような大きな岩が海の中に立ちました。
 さすがの黒潮入道もびっくりして、「どうしてお前はこんなにえらい人間なんだ、」と尋ねました。太吉はちっとも隠さずに、「今晩中に島と陸との間へ橋をかけます。夜が明けたら神様がお手伝いして下さらないのでそれまでにしてしまわねばなりません。」と申しました。聞くなり黒潮入道は、コケコッコーと一番どりのように鳴きました。すると、まだ真夜中でしたが、村中の鶏は夜が明けたのかと思うて、皆、コケコッコーとと鳴きたてました。太吉は鶏の声を聞いてびっくりしました。
「あ、もう夜があけたのか、神様へ申し訳がない。」と大層悲しみました。そして浪の中へ飛び込んで死んでしまいました。

 正直な太吉が死んでから天へ上りました。太吉は死んだ後でも、「神様に申し訳がない。」といっては、時々天で泣いています。
夕立は太吉の涙です。神様は太吉の涙を御覧になると、可愛そうに思われまして、「太吉や、さあ、見てごらん!橋はこの通りかかっている。」とおっしゃっては美しい七色の橋を雲の中へ架けられます。

太吉が骨を折って、海の上に立てた橋杭は、今も残っている橋杭の立巌(たていわ)がそれです。
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16.三十三間堂棟木 柳の木運搬

 熊野川の奥に楊子の薬師様という小さな無住のお堂がある。そこが三十三間堂棟木の柳の大木が生い育った所だという。
 三十三間堂は只一本の棟木だと聞くから、三十五間以上もあったのだろうと思うが、それが切り出されて熊野川を下り、京都へ運搬される途中、千石船に曳かれて大島港まで来た。潮岬は言うまでもなく名代の
難所だ。空船でさえ潮待ちをして潮の流れや風の方向や、雨降りでない日を見透かして船を出さねばならなかったのに、三十五間以上もある大木を曳つ張ってとなると、なかなか簡単に船は出せなかったと見える。潮の流れや風の具合、波の静かな雨のない日のこうして自然の条件がたまたま皆そろったにしても、いざ出航となると、夜来の雨で帆が濡れていたり、船人や棟木附添の御用人達に何かと故障があって不思議と船がだせなかった。
 焦った一行は少し無理を推して船を出そうとすると、港を出てすぐ棟木の曳き綱が切れて、また船の梶に故障をきたしたり、その他の事故が必ず起きて、どうしても船を出せなかった。そこで運搬御用人達が相談して都に使者を立てたので、幾人もの僧侶が出かけてきて、ここ大島の一番山の麓戎のはなで連日潮ご祈祷やら柳供養やらと大げさに繰り広げられた。
 そうすると、その甲斐があって潮の流れが下り潮から上り潮に変った。そのため、船と棟木がらくらくと岬を越すことができた。しかし、柳の棟木が岬を越してからも潮の流れを元に戻す潮ご祈祷を怠ったため、下り潮に戻らず不漁が続いて、この付近の漁師が困ったという話がある。

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17.おおな伝説

 
ずっと遠い昔のある冬の日のことだった。
みすぼらしい旅僧が疲れ切った表情で、ある一軒の
漁師の家を訪れた。
粉雪の舞う凍りつくような寒い日だった。
旅僧は空腹と寒さで震えながら「何か食べ物をください」と頼んだ。あいにくその家では食事をすませた後で何もなかった。漁師が漁に出かける為に作った弁当があるだけだった。
「一度ぐらい食事を抜いても・・・・」と、漁師は弁当を旅僧に与えた。
旅僧は非常に喜び、お礼を言った後で「この沖一里(約4キロ)、深さ百ヒロ(170〜180M)のあたりに大きな魚がいる。漁に行きなさい」と告げ、何処ともなく立ち去った。
 漁師はすぐ近所の人たちにこの話をしたが、誰も信用しなかった。
そのうち春がやってきた。漁師達は不漁にあえぎ、表情は暗かった。
その時、旅僧の話がでた。
「嘘でもよいから一度現場へ行ってみよう」半信半疑で出漁した漁師たちは驚いた。
 旅僧の言った通り、今まで見たこともない大きな魚が釣れた。うまい魚だった。話はすぐ村中に広がり、だれゆうともなく「あの旅僧は弘法大師だったのだ。お大師様のお恵みじゃ」と大喜びだった。
 和深だけにしかとれない珍しいもので、とれる期間も毎年4・5月に限られる。
ちょうど「大菜」が出回るシーズンで、いっしょに炊いて食べるとうまいので、いつしかこの魚「おおな魚」と呼ばれるようになったという

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